きのうのかぼちゃでシチューを作った。これは夜に食べた。
昼は冷凍ご飯温めて、オイルサーディン丼にした。
これは、森瑤子お気に入りのレシピ、要は「リゾートなんかで食材がない時にありものでぱぱっとなんか作れるのがいい女よン」という昭和後期っぽさ満点なレシピだけど、たまに作ると美味しい。
そんな涙するほど美味しいかというと「イワシの油漬けを熱して油ごとご飯にかけて醤油かけた味」としかいいようがなく、白いご飯に油かけたらそりゃ美味しいに決まってるわよね。
しかし、自分の場合、たいがいの場合は「ぱぱっとありものでなにか作る」で乗り切ってきたが、まったくいい女感がないな。おそらくギャップがないんだと思う。ラグジュアリーと日常の落差がいい女感を醸しだすのであり、いつも日常ではそうならない。
夜、なんか気持ちがつかれたので飲酒。久しぶりにいい感じに脳のスイッチをオフできたと思う。
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人生相談的コンテンツで「わたしの人生が社会から承認されてなくてしんどい、多様性をみとめてほしい」的なのをたまに見かけるけれど、現代社会って、ある特定の生き方が認められていないのではなく、「さまざまな事情からしんどい人生に甘んじている人に対して厳しい」という感じがする。多様性は認められているけれど、多様な輝きが認められているのであり、輝かない自由は認められてない。しんどくても、もがき続けないと評価されない。
昔は、多様性がなかったから、社会に認められるようなレールに真面目に乗って生きてきたのに不運だったりはしごを外されて不幸になったら社会の被害者として同情してもらえたけれども、今は「いやいやそれも自己責任でしょ」ってポカリとやられる、そういう感じよね。それが多様性。
まあ、生きづらさ、窮屈さって多様性の問題じゃなくて、むしろ、その人自身が多様性を認めておらず、自分だけは規範に従って承認される生き方をしようとしてるからなんじゃないの?
今や、誰もが認める正解なんてそんなものはないのに、正解があると思い込んでいるから、他の生き方を選んだ人たちが幸せそうにしている、イコールそっちが正解でわたしは間違いなの?って思っちゃってるだけとちゃうかなあ、そんな風に思ったりしました。
今どき他人の生き方に面と向かってとやかく言う人なんていないし、自分の中の世間様が認めてくれるかどうかって話にすぎないのよね。